2010年07月31日

さや命日

7/31

出会った時からずっとずっと小さかったさや。。。

投稿者 aozora : 11:05 | コメント (0) | トラックバック

2006年11月10日

シューゾーとあっという間に青空を駆け上ったさや

シューは、生後半年くらいの時会社に顔を出すようになった。
この頃から猫好きで、誰かれ構わず猫を見かけると、嬉しそうに側に寄って行こうとしていた。
しかし、いじめっ子の成猫たちに追われ、無鉄砲に道に飛び出す。
そして、道の真ん中で止まってしまう。何度と無く車に轢かれそうになった。

そんなことを繰返す不安な毎日だったので、保護場所もなかったが、しばらく病院で預かってもらおうと決め、知り合って2週間くらいで捕獲、去勢した。
それが昨年の2月のことだ。

シューより少し前にさやが会社にやって来るようになっていた。
同時期に同じ方向からやって来た2匹は兄弟のようだった。


確認する為近所から情報を集めた。
すると、幼い2匹が自力で来れる距離ではない所で、茶トラがたくさん居る場所があると言う。
そこは、増えようが減ろうが知ったっこっちゃないという無責任な人が、自宅の塀の上で餌をやっていた。
塀の下には、餌箱にした発砲スチロールの皿が散乱しており、悪臭が漂っていた。
痩せ気味の白茶の成猫達、シューやさやくらいの茶トラ、白茶の猫達が、通りがかっただけで5〜6匹目についた。

そして、情報を集めていくうちにうちの会社に来る過程が把握できた。

その茶トラ繁殖場と会社の中間距離くらいの所に仔猫のシューとさやは捨てられていたそうだ。
子供がシューとさやを連れて来たものの 親に飼わないと言われ子供宅の近所のこの中間場(餌をばら撒く人達がたむろする場所)に置いて行った。
そして、数人で可愛いい盛りの仔猫に単に無責任に餌をやり喜んでいた。
ちょうどその頃、その中の一人が、わざわざご丁寧にわたしに言いに来たことがあった。

その人は、無責任な笑顔で、「ねぇねぇ仔猫が2匹さぁ〜」と唐突に言い出したので、わたしは、猫の話は聞かない。聞きたくない。と言ったのだが、「違うの違うのぉ。可哀想な話じゃないのぉ。」と言って、聞きたくないという仏頂面のわたしに全く構うことなく話を続けた。

この人には、こう言った形やまた違うシチュエーションで何回も嫌な思いをさせられたり、猫を押し付けられたりしていた。
蓮華(旧サガン)ちゃんもこの人が避妊もしないで、何度も仔猫を産ませ、そして、最後にはわたしに押し付けた。
散々、抗議したが、最後にはサガンではない。猫違いだとまで言い出すような人だった。

これより前にも、疥癬で死にそうな猫がいると、放し飼いにしていた猫のことで泣きついてきた。
その時、わたしは会社が移転してきたばかりで、どんな人かも知らず、ただただ善意の人だと、会社の人の知り合いであるこの人の仲間(23匹を置き去りにした人物の一人)に騙され、友人の獣医にわざわざ遠方から来てもらい、治療してもらった。

この時も友人と二人でその場所に行くと、この近所中の放し飼い、無責任な餌やりの人達とその猫達を大勢集め、この子も移ってる、この子は大丈夫かと大診察会、治療会になった。
そして、治療費を払うという人にまでいいのいいのと断わっておきながら、自分達も1円も払わなかった。
払わないどころか、後日23匹放棄人が数名からお金を受け取っていたことを知った。
それでも、猫が心配な友人は、数週間後に2度目の治療にやって来てくれた。

続きは後日・・・

投稿者 aozora : 22:33 | コメント (0)

2005年08月02日

さや

7月31日
生きているのが奇跡と言われ続けたさやが他界した。

今年の1月20日に保護し、FIPであることがわかりうちの子にした。
色々な検査結果の見地から、行く先々の病院で発症、末期と診断された。
1歳未満であろうさやは、長くて3ヶ月と幾つもの病院で言われていた。

入退院を繰り返し、毎日の投薬と輸液。
それに耐えていたさやは、可哀想だった。
投薬を強固に、徹底的に嫌がるさや。
色々なサプリもさやには効果がなく、苦痛でしかなかった。
マクロップだけは、自分から舐めてくれたので続けていた。
もう、そっと見守ったほうがいいのではと思うことも度々だった。
それでも、鍼治療は気持ち良さそうだった。
本人は、がんばるんだという表情をずっと絶やさなかった。
生きることを決して諦めたりしない瞳に 引っぱられるような思いで最後の日までやってきた。

インターフェロンも副作用の心配のないといわれる天然型ヒトインターフェロンもさやには合わなかった。
抗生剤の感受性検査も重ねるたびに、効く薬がなくなっていた。
飲み薬の最後の切り札ファロムもさやには効果が見られなかった。

今回は、入院を考えていなかった。病院へ行くまでは。
しかし、院長先生から抗生剤の最後の切り札といわれる注射、カルバペネム系のチェナムの治療があると聞かされた。
迷ったが、院長先生のさやを思ってくださるお気持ちにお願いすることにした。
今までの入退院とは違い、少し長めの入院になるはずだった。

この治療後、再び状態が悪くなった時はうちで様子を見ながら・・・と院長先生に告げた。

悦司と凜がブーブー文句を言っている帰りのタクシーの中で、入院させるならもっと朝早くからお刺身を焼いてあげ、たくさん食べる時間を与えてあげれば良かったと思った。昨夜もごはんは深夜になってしまったし・・・可哀想なことをしたなぁとちょっと後悔した。
でも、明日病院の了解を得られたら、お刺身と鶏肉を焼いて差し入れしてあげよう。おもちゃも持っていってあげよう。そうやって自分の後悔を打ち消そうとしていた。


翌日の午前10時頃。一時心停止。
呼吸も止まり、緊急の手当てで自発呼吸には戻ったが、病院から連絡をいただきかけつけた時には、電極とたくさんの管に繋がれ、意識もなく、脳死状態だった。
さやの傍らに、先ほどまで使われていた酸素吸入器が見て取れた。

随分のしっぽ達を看取ってきたが、初めて、安楽死という言葉を口にした。
安楽死はしない方針の病院だったが、さやの場合は念頭において下さっていた。
それくらい、さやはがんばっていたんだと改めて思い知らされた。

そして今日、荼毘にふした。

猫が大好き。孔祐お兄ちゃんが特に好き。おもちゃも大好き。お刺身を焼いたのが大好き。
でも、出会った時から思うように動けなかった幼いさや。
おもちゃで遊ぶことも他の猫に寄り添って眠ることも、望んでいたのにさせてあげられなかった。
本当にがんばったさや。
そして、頑固者だった。あきれるほど女の子だなぁという頑固さだったさや。

この世界から旅立ったさやは、きっと、多夢、ぶんお兄ちゃん(どんな子にでも優しかったので)に仲良くしてもらっていると思いたい。
さくらや風ちゃんも躾に関しては厳しいけれど面倒見が良いし、JIJIも涼も頼られると嫌とは言えない性分だし、夏香も怒っても、慕われると文句をいいながらも可愛がって面倒をみてくれるので、きっと迷わないようみんなにお迎えに来てもらえる・・・。
出会ってから、辛い思いしか与えられなかったさやに、やっと安らいで過ごせる無邪気な時間が訪れた・・・そう思いたい。

何回見送っても後悔ばかり。要領を得ることも慣れることもできない。大人という年になって随分経つのに・・・
nekoneko2 021s.jpgnekoneko2 019s.jpgyueki.jpg

投稿者 aozora : 15:31 | コメント (1)